山川穂高の育ちは那覇市で母子家庭の一人っ子!習い事の数がすごい!

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埼玉西武ライオンズ所属で第5回WBC優勝メンバーでもある山川穂高選手。

山川穂高選手は、2013年にドラフト2位で西武ライオンズに入団して以来、西武ライオンズ一筋の選手です。

なので、関東出身のイメージがあるかもしれませんが、山川穂高選手の育ちは沖縄県那覇市です。

山川穂高選手の育ちは那覇市で、高校まで沖縄から出たこともなかったそうです。

 

そして、山川穂高選手は母子家庭で一人っ子という育ちだそうです。

母子家庭の山川穂高選手がプロ野球選手になるまで、母親一人で支えてきたということです。

さらに、山川穂高選手の習い事の数がすごいこともわかりました。

また、山川穂高選手のご両親は、穂高選手が生まれてすぐに離婚されたとのことですが、その後父親とは会っていないのでしょうか。

 

今回は、『山川穂高の育ちは那覇市で母子家庭の一人っ子!習い事の数がすごい!』と題して、山川穂高選手の育ちについて調べてみました。

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山川穂高の育ちは那覇市で母子家庭の一人っ子!

山川穂高選手の育ちは、沖縄県那覇市とのことです。

母子家庭の一人っ子である山川穂高選手の母親とのエピソードなども紹介していきます。

山川穂高の育ちは那覇市!

山川穂高選手の育ちは、沖縄県那覇市で、岩手県の富士大学に進学するまで、沖縄から出たことがなかったそうです。

母親が慌てて止めたものの、「(富士大のある)岩手がどこか分からんけど、行くと。沖縄から出たことないし、富士山も降っている雪もほとんど見たことがなかったが、監督の言う通りに西武に行けて、本当にありがたかった」と語った。

スポニチ

山川穂高選手は、那覇市立城北小学校から城北中学校を経て、沖縄県立中部商業高等学校に進学しました。

沖縄から出たことのなかった人が、大学で沖縄から出ることになり、それも気温などが全然違う岩手とは、母親も心配だったでしょうね。

山川穂高は母子家庭の一人っ子!

山川穂高選手は、母子家庭の一人っ子ということで、母親・喜代子さんと2人家族だったとのことです。

山川は、女手ひとつで育ててくれた母親・喜代子さん(54歳)への感謝を、ことあるごとに口にしてきた。

週刊現代

山川穂高選手が生まれてすぐに、ご両親は離婚しているとのことです。

 

山川穂高選手は、母親のことを「『巨人の星』の明子姉ちゃんみたいな人」と言っています。

どんな人かというと、「陰からそっと見守り続ける人」です。

山川は母を指して「『巨人の星』の明子姉ちゃんみたいな人」と言う。「気は優しくて力持ち」の息子と、それを陰からそっと見守り続ける母。

週刊現代

また、山川穂高選手が通った保育園の園長も母親・喜代子さんについて「子供を黙って見守ることができる人だった」とおっしゃっていたそうです。

例えば、母親・喜代子さんは、幼い穂高選手が一生懸命に靴を履こうとしているあいだ、何も言わずにただじっと見ていたそうです。

せかしたり、怒ったりせず、雨が降っている日でも、傘をさしながら自分でできるまでずっと待っていたということです。

山川穂高選手は、そのような母親の元で育ったんですね。

山川穂高の習い事の数がすごい!

母子家庭の山川穂高選手ですが、小さい頃からの習い事がすごいんです。

  • アイススケート(幼少期から)
  • 水泳(幼少期から)
  • 習字(5歳から)
  • 野球(小学校5年生から)
  • ピアノ(半年間)

習字以外の習い事は、母に強要されたわけではなく、山川穂高選手が自分でやりたいと言ったようです。

また、母の勧めで始めた習字は、中学3年生で八段を取得しており、山川穂高選手が達筆であることは野球ファンの間では有名です。

 

そして、山川穂高選手が野球を始めたのは小学5年生で、仲の良い同級生に誘われたのがきっかけで地元の少年野球チーム「首里マリナーズ」に所属しました。

プロ野球選手と言えば、小学1年生の頃には野球を始めている人が多いイメージなので、小学5年生からは遅い方ではないでしょうか。

それでプロ野球選手になるとは、相当努力されたはずです。

 

母親・喜代子さんは、平日は朝から晩まで仕事をして、休日は野球の応援や送迎に積極的に協力していたそうです。

それでいて、巨人の星の明子姉ちゃんのような方なので、余計な口出しは一切しない、控えめな人だったとか。

ただ、その頃から「プロ野球選手になりたい」と言っていた穂高選手を全力で応援したい、と力強く語っていたそうです。

そんなお母さんへの思いは、山川穂高選手も人一倍強いはずです。

2013年にドラフト2位で西武ライオンズ指名を受けた山川穂高選手は、契約金で母親にかわいい車を買ってあげたい、と答えていました。

 

そして、2022年の母の日の試合では、ベルーナドームで観戦していた母親・喜代子さんの前で、2打席連続となるホームランを放つという最高のプレゼントを贈りました。

山川穂高選手は、その際も母親に感謝の気持ちを述べていました。

「僕がここまで体でかくなったのは、本当にお母さんのおかげ。目の前でホームランを打てたのは最高です」

サンスポ

プロ野球選手になるまで懸命に支えてくれた母親の前で、母の日に2打席連続ホームランは素晴らしすぎますね!

幼少期から様々な習い事をしてきた山川穂高選手ですが、その一つである野球で最高の恩返しをできているのではないでしょうか。

山川穂高は父親とは会っていない?

山川穂高選手のご両親が離婚して以来、父親とは会っていないかどうかはわかりません。

ただ、山川穂高選手と父親とのエピソードが一切ないため、会っていないのかもしれませんね。

会っていたとしても父親の話をしていないだけかもしれませんが、小学校の時の野球の大会も応援に来ていたのは、母親一人だったとのことです。

土日の大会になると、両親がそろって応援しにくることが多いですが、穂高だけはお母さん一人でした。決して口に出すことはなかったけれど、お母さんへの思いはとても強かったと思います。

週刊現代

ですので、ご両親が離婚してからは、父親には会っていないのではないでしょうか。

まとめ

山川穂高選手の育ちは沖縄県那覇市で、大学に進学するまで沖縄から出たことがなかったとのことです。

母子家庭の一人っ子で育った山川穂高選手は、母親への感謝の気持ちが人一倍強いようです。

母親・喜代子さんは、朝から晩まで仕事をして、休日になると息子の野球の応援や送迎に積極的に参加していたそうです。

幼少期からアイススケートや水泳、習字をするなど習い事の数もすごい山川穂高選手ですが、それを支えてきた母親もすごいですね。

休む間もなく、息子のために懸命に過ごしてきた母親の姿を見ていたため、恩返ししたい気持ちがとても強いのではないでしょうか。

契約金で母親にかわいい車を買ってあげたり、母の日に2打席連続ホームランを放ったりするなど、プロ入り後に最高の贈り物をされていますね。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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